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甘樫の丘

今日は比較的ぬくかったですね。


去年末から奈良の写真を撮りだしてから、
歴史(特に古代史)のサイトを見るようになりました。
意外と覚えてないものですね。


それに、昔習った用語が今は違ったり。
大化の改新 → 乙巳の変
仁徳天皇陵 → 大仙陵古墳
などなど。。。
とは言え、不確かな証拠だけだった歴史が、
徐々にベールを抜き出しているのでしょう。
どうやら邪馬台国は畿内説の方が有力なようですし。


さて、甘樫の丘です。
甘樫の丘は明日香村にある丘です。
一説によると、蘇我一族が甘樫の丘に
邸を構えていたという事だそうです。



甘樫の丘_e0145635_17471646.jpg




【甘樫の丘から耳成山を】
PENTAX K20D
Distagon T* 28mmF2
焦点距離28mm
WB太陽光
1/80sec
F8.0
露出補正 0.7
ISO感度100




甘樫の丘展望台からは、明日香の北と東、西を一望出来ます。




甘樫の丘_e0145635_1752167.jpg

【甘樫の丘から板蓋宮方面】
PENTAX K20D
Distagon T* 28mmF2
焦点距離28mm
WB太陽光
1/60sec
F4.0
露出補正 1.0
ISO感度100




伝板蓋宮は乙巳の変があった場所です。
645年6月12日、一説には次期大王候補だった
蘇我入鹿が暗殺されます。


蘇我入鹿の父、蘇我蝦夷がいた甘樫の丘に
蘇我一族に縁のある渡来人達が集まったそうですが、
蘇我蝦夷は自らの館を焼き払い、自害したと言われています。


甘樫の丘から板蓋宮は目の前。
恐らく、入鹿が暗殺された直後の宮殿の混乱は、
蝦夷のいる甘樫の丘から見えたはずでしょう。
蝦夷はどんな気持ちで見ていたのでしょうか。



蘇我氏に関しては、ものの本により捕らえ方が様々ですし、
この時代は古代ヤマト王朝の初期の初期。
大陸からの多大な影響をいかにして乗り切るか
色んな部族が朝廷を舞台に活躍します。


朝廷自体は、朝鮮半島の百済と親交を深めていました。
(百済から仏教が伝来したのもこの影響があるでしょう)
そして、百済を頼りに大陸(中国・当時は隋や唐です)に対して
ヤマト王朝の力を示していたのでしょう。


しかし、隋や唐の軍事力を渡来人から聞きつけ
ヤマト王朝の百済一辺倒外交に危機感を抱いていたのが
他ならぬ、蘇我氏だったと言います。


大陸にこびるか、半島(百済)と結ぶか。
乙巳の変はここが焦点になった訳です。
結局大陸派の蘇我氏宗家が滅ぼされ、
半島派の中大兄皇子や中臣鎌足が朝廷を支配します。


これが後の白村江の戦い、
そして防人にまつわる悲劇を招くとは
思わなかったのでしょうね。
歴史は結果論ですので・・・


甘樫の丘を登ると、そんな歴史が垣間見れます。
by keisukerudolf | 2009-01-08 18:15 | PENTAX K20D
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